イタドリと出会ったあとに、
大阪帰ってみて、よう見たら
イタドリが生えてた。
枚方駅前に生えてたんよ。
「これイタドリやん」って。
まあ、雑草よね(笑)
高知県民以外は雑草(笑)
排気ガスかぶってそうやし、
よう食べへんけど(笑)
藁屋にて。
市場や農家から仕入れる季節の野菜を
使った定食が人気の藁屋(わらや)にて。
「イタドリと夏野菜のグリーンカレー」を囲みながら、
高知の食文化を支える曜日市、
郷土料理としてのイタドリ論などを聞いてきました。
Vol.3では、「藁屋」という名前の由来から
名前を呼ばれる関係性と郷土食材・イタドリが持つ共通点まで。
広義な意味でのイタドリを探訪してみます。
明日、作る料理がちょっとだけ楽しくなりますように。
#3 美味しい記憶を形づくるもの
探訪員 「藁屋」っていう名前の由来はなんですか?
隼也 構想当初、カッコつけた店の名前を考えていた時、
この人(麻衣さん)の実家(土佐清水市)の
住んでいたエリアに「麹屋」っていう屋号があって。
「麹屋のおばあさん」っていうと、この人の
ひいばあちゃんのことやったことを知って。
その時に、屋号っていいなあって思ったんよ。
隼也 大阪に帰省した時、屋号についておじいに聞いたんよ。
実家はもともと農家で、野菜がない時は家の隣の蔵に
藁をためこんで、近所の人に藁を売ってたと。
ほんで近所から「藁屋さん、藁屋さん」って
呼ばれてて。うちのおじいも「おい、藁屋の息子」
って呼ばれてた。
麻衣 ほんで、「藁屋」の復活をしたんよ。
隼也 今は、うちの息子が「藁屋の息子」っていう
呼ばれ方をするようになった。
麻衣 そこに落ち着いて、候補に挙がってた妙に横文字の
名前は却下したよね(笑)
探訪員 他にもおじいちゃんから受け継いだものって
あるんですか?
隼也 大阪でも田舎の方やから畑借りてずっと畑してて、
小さい時からおじいちゃんが作った野菜を食べてたね。
おじいは農家辞めてから、レストランを始めて、
台所に立つことも好きやったね。
麻衣 家で豚骨ラーメンをよく食べさせてくれてたよね。
寸胴で豚骨から出汁をとって。
隼也 夏前はトマトばっか食べさせられてたし、冬前は
ほうれん草と白菜とネギばっか食べさせられてた。
でもその時期にはそれ食べるもんやと思って
育ってる。夏になるとイチジクをバケツに何杯も
もらってきて、それを消費するのにみんな必死で
食べてたんよね。
探訪員 野菜への愛はそこから生まれたんですね。
隼也 大きい飲食チェーンでも働いてきたんやけど、
通年食べられるグランドメニューって、無理やり
色んなとこから、野菜をかき集めて作られてたの。
そこには季節もないし、時期もない、
自分がどこにいるのかも、今がいつなのかも
わからんメニューやって。それがなんかすごい
息苦しくなって、気持悪くなって、なんか、
窓のない部屋におるみたいな感覚になったんよ。
自分がご飯を作る仕事に携わる以上、季節感みたいな
ものを伝えることはまず与えられた責任やと思って。
だから金曜市にも10年以上行ってるんよね。
隼也 美味しいって、結局体験やと思う。
食べて舌が感じる美味しいとはちょっと違う、
それだけじゃなくて、それに付随する体験が
美味しいを美味しいたらしめていると思う。
高級三ツ星レストランのシェフが作ったご飯が
美味しいのはわかってるけど、一緒に山登って、
山の上で食べるどんべいって格別やん。
「美味しい」ってなんかそんなことやん。
麻衣 「おいしい」が体験に付随するっていう意味では、
お店でも「おいしかったね」「また来たいね」って
やっぱり思ってもらいたい。だから最後の
送り出しは、目を合わせて「ありがとうございます」
って言おうって心掛けている。
隼也 僕の大好きやったお店の大将が、
「ありがとうございました!!!」って
必ず大きい声で言う人やったんよ。
「自分もそうならなあかんな」って、
いまだに心に残ってる。
探訪員 たかが挨拶、されど挨拶なんですね。
それって、相手の世界の中に自分が
存在していることの安心感なのかも。
隼也 その安心感って高知の人の少なさにも関係あるよね。
人が少ないからキャラが立つ、みたいな。
麻衣 人が多いと自分が誰かわからんなるもん。
自分って別に必要とされてる?みたいな感覚に
なってくるんよね。
探訪員 その点、田舎は良くも悪くも、ただ生活してるだけで
近所づきあいもありますよね。
麻衣 そうそう、自分の名前を呼んでくれる人いっぱい
おるやろ。存在を認めてくれる場所がいっぱいある
安心感ってあるよね。
名前を呼ばれる関係について
隼也さんの語りの中に、食材や農家さん、
季節の移ろいに向けられた、温かな眼差しを感じた。
そして当然ながら、二年前に藁屋を初めて訪れた私にも
向けられていたのだろうと振り返る。
それはまさに、あの時、私が受け取った安心感の正体であった。
藁屋の定食を食べるとき、同時に私は、
そこに漂う温かさを食べている。
名前を呼ばれたり、一度会った相手と「あ、この前の!」となった時に嬉しくなるのは、「相手の世界の中に自分が存在する安心感」がそこに横たわっているからだと思う。
高知の人々が雑草Aをイタドリと名付けて食べてきたがゆえに、
イタドリの話を聞くとき、
その周辺にある人々の営みを覗くことができる。
郷土料理とは、すなわちそういうことなのかもしれない。
飽食の時代に淘汰されるべき"ただの雑草"が名前を与えられ、
そこに住む土着の人々の歴史の中に存在している。
これを改めて眺め直し、記憶に刻もうとする試みは、
この世界に存在する「取るに足らないもの」への祝福でもある。
そう考えると、これからの探訪がより一層楽しみになった。